稲田 富之 いなだ とみゆき

横浜市戸塚区戸塚町出身
横浜市立戸塚中学校卒業
横須賀学院高校卒業
桜美林大学国際学部国際学科卒業
大学卒業後、イタリアのシエナでイタリア料理とカフェ文化を学ぶ。
帰国後、東京表参道にカフェをオープンし、原宿の竹下通りなどにも店舗を展開。
店舗経営と並行し、コンサルタントとして戦略立案や新規プロジェクトの立ち上げなど企業が抱える様々な問題を解決し、多くの企業経営に貢献。
現在は、鎌倉小町商店会の広報およびWEBサイトの運用、横浜市観光事業や各地の魅力再創出事業(観光庁関連)、飲食店のアドバイザーなどいくつもの事業に携わっている。(衆議院議員及び神奈川県会議員の秘書業務経験あり)
人となり
身長:181cm 体重:74kg
趣味:スポーツ全般(マリンスポーツ含む)、筋トレ、読書、落語、書道(日本書芸院在籍)
特技:バスケットボール(学生時代は神奈川県代表)、イタリア料理、ものまね
好きな本:宝島、テスカトリポカ、逆ソクラテス、容疑者Xの献身、アルジャーノンに花束を
好きな漫画:スラムダンク、ドラゴンボール、鬼滅の刃、ミステリと言う勿れ、天狗の台所
鎌倉の好きなところ:優しくて気さくで地元を愛している人が多い、日本の伝統文化が息づいている、個性あふれるお店が多い、海・山など自然が豊かで四季の移り変わりを感じることができる、蛍が見れる、歴史を感じ先人たちに想いを馳せる場所が多い
鎌倉の魅力:海、山、歴史、人
座右の銘:不易流行、温故知新
中学・高校時代
中学時代はとにかくバスケットボールに打ち込んでいました。横浜市立戸塚中学校バスケ部の仲間たちと神奈川県3位の成績を残し、個人では神奈川県の代表選手として全国大会に出場しました。その後、バスケットボールの推薦入学で湘南工科大附属高校に入学しましたが突発的な病気を患い、入学半年で途中退学しました。
突如として高校生ではなくなったこと、大好きなバスケットボールができなくなった現実を受け入れることができず、苦しんだ日々が続き、その後の進路についても悩みに悩みましたが、家族や友人たちが背中を押してくれたおかげで自暴自棄にならず、翌年もう一度受験し、横須賀学院高校で新たに学び直す道を選びました。
思春期の私にとって一年学年下の友人たちと過ごす高校生活は様々な葛藤がありましたが、素晴らしい先輩や仲間たちに恵まれ、とても楽しい高校生活を送ることができました。
彼らとは卒業から25年経った今でも良好な関係が続いていて、本当に感謝をしています。




大学時代
桜美林大学国際学部で国際コミュニケーションについて学びました。
同期たちは英語力に優れ、高い国際感覚を持っていたので私は彼らに触発される形で夏季休暇等を利用し、東南アジアを中心にバックパッカーとして旅をしていました。
バックパッカーとして旅をした時間は、私の人生に大きな財産を残してくれました。限られた予算と荷物で見知らぬ土地を巡る中で最初に学んだのは、「柔軟性の大切さ」です。計画通りにいかないことが当たり前のアジアの旅は、予期せぬトラブルや変更にも柔軟に対応する力が求められます。その中で、完璧を求めるよりも、状況を受け入れて楽しむことの大切さを学びました。
また、「人と人とのつながり」の温かさにも気づきました。言葉や文化が違っても、身振り手振りで会話をした現地の人々や、宿で出会った旅人たちとの交流を通じて、国境を越えた人間同士の優しさや共感がどれだけ力強いものかを実感しました。
バックパッカー旅行は単なる観光ではなく、自分を成長させる挑戦でもあります。この経験を通じて得た知識と経験、そして感謝の気持ちは今の私の土台を形成してくれています。
このような貴重な経験をするきっかけを与えてくれた大学時代の仲間たちには今も心から感謝をしています。




イタリア留学と起業
大学卒業後、イタリアのトスカーナ地方にあるシエナに留学していました。
シエナは16世紀の街並みを現代に残した美しい街で、私はイタリア語を学びながら現地のリストランテで料理とカフェ文化についても学ぶ日々を送りました。
言葉も文化も全く違うイタリアで暮らすことは時に孤独と忍耐を強いられましたが、現地の方たちの優しさと温かいカプチーノが私を何度も救ってくれたことは今でも忘れられません。
しばらくして、少しずつ会話もできるようになり、イタリアの生活にも慣れ始めた矢先に父が脳梗塞となり、日本への帰国を余儀なくされました。
この先もずっとイタリアで暮らしていくことを夢見ていた私にとって、強制的にその夢を諦める形となり、人生は自分の意思だけでは決められないということを知る一つの出来事となりました。
父は一命を取り留めましたが、利き手側の右半身の麻痺と言語障害が残ってしまい、歩くこと、食べること、会話をすることが難しい状態となりました。
私の家庭は、父子家庭でしたので祖母と二人で父のリハビリ生活を支えていくことになりました。
この時、父はまだ53歳でしたので積極的にリハビリを行った結果、1年ほどで少しの支えがあれば簡単な日常生活ができるほどまで回復していきました。
その後、私は東京で起業し、2005年に表参道にある青山学院大学西門のすぐ近くでハートリーフカフェというお店をオープンしました。イタリアで学んだ料理とカフェの文化を多くの人に知ってもらうため、スタッフたちと共に試行錯誤と創意工夫を繰り返し、オープン以降、順調に店舗を運営することができました。
しかし、2008年のリーマンショックの影響で経営は一気に傾き、お店の口座残高が52円にまで減ってしまった時の激しい焦燥感と絶望感は今でもはっきりと覚えています。
それでもお店を支えてくれていたスタッフたちの奮闘のおかげで少しづつ業績を回復させ、自社の多店舗展開と他社の店舗プロデュース業を開始しました。
その後、原宿の竹下通りや多摩センター三越など自社店舗を5店舗まで展開し、店舗プロデュース業も順調に進んでいましたが2011年の東日本大震災による自粛期間の影響で会社の状況は大変苦しくなり表参道の店舗以外のすべての店を閉じることにしました。それからは店舗運営と並行して、知り合いの企業のサポートを行うようになりました。
守秘義務があるため詳しくは書けませんが、イベント、広告、美容、金融、飲食、デザインなど、様々な業界の企業サポートをしてきたことで、多角的な視点と実践的なスキルを身につけることができました。それぞれの企業には独自の文化や働き方、業務プロセスがあり、それらに適応し成果を出すことで、柔軟性と問題解決力を養うことができました。また、スピード感が求められる企業では、意思決定のスキルを鍛え、別の企業では、チームでの調整や交渉力の重要性を学びました。
異なる業界や業務内容に触れる中で、新しい知識を吸収する力や、課題に応じた最適なアプローチを選ぶ力が磨かれたと感じています。
このような多様な経験を通じて、単なる知識やスキルだけでなく、どのような環境でも成果を出す力が身についたと思いますし、多くの優秀な経営者と一緒にお仕事をさせてもらえたことは、私のビジネスキャリアにおいて最高の財産となっています。
この力は今後、鎌倉のまちづくりにおいても大きな強みになると確信しています。




父と祖母の介護
父は脳梗塞を発症した後、一刻も早く元の生活に戻りたい一心で懸命にリハビリに取り組んでいましたが、時間が経つにつれ、思うように体が動かないもどかしさや、期待通りに回復しない現実に直面し、次第に苛立ちが募るようになりました。
その苛立ちはリハビリへの意欲を削ぎ、時には周囲の支えに対しても感謝よりも不満を抱くことが多くなっていきました。
その後、父の体はみるみる動かなくなり、会話も十分にできなくなっていきました。
この頃、私は都内と実家の両方を行き来する生活をしていましたが、もう祖母だけでは支えられない状態となってしまったため実家に戻り、より多くの時間を父の介護に充てることになりました。
祖母と協力し合い、なんとか良好な関係を保ちながら父の介護をしていましたが、祖母は介護の負担から次第に体調を崩していき、入退院を繰り返すようになりました。
祖母の健康状態が悪くなったことをきっかけに祖母にも介護が必要になってしまい、私は30代後半にして父と祖母の二人を同時に介護することになりました。
二人を同時に介護することは想像よりも断然厳しく、私の生活は一変しました。
初めは「家族だから」と自分を奮い立たせ、できる限りのサポートをしようと努めていましたが介護の日々は終わりが見えず、体力的にも精神的にも限界が近づいているのを感じるようになりました。父が感情をぶつけてきたり、祖母の希望に応えられないときは、ただ無力感に襲われるばかりでした。
そんな生活が1年以上も続くと怒りや疲れが積み重なって、些細なことで苛立つようになります。私は父と祖母に対して、いつか本物の憎しみが芽生えてしまうのではないかという恐怖を感じ始めました。
そして、いよいよ限界を超えたとき、父や祖母に対して暴言を吐いてしまうようになり、私たち家族の関係は悪化の一途を辿ります。
抑えようとしても抑えきれず、大切な家族に対し暴言を吐いてしまった時の後悔と罪悪感、そして、そんな自分への嫌悪感に苛まれ、苦悩を抱える日々が続きました。
こんな生活がいつまで続くのか?なぜ自分だけこんな大変な思いをしなければいけないのか?
まるで真っ暗な未来にゆっくりと吸い込まれて行くような、自分の力ではもうここから抜け出すことができない絶望感から、私は、いよいよ家族の死を期待するようになってしまいました。
その時の私は公的な福祉についてよく調べもせず、それしか自分が楽になる方法がないと思い込んでいました。
限界を迎えた私は周囲の勧めもあって、公的な福祉サービスを利用することを決意しました。
ケアマネージャーさんとの出会いは大きな転機でした。
父と祖母の状態や私の負担を丁寧に聞き取り、デイサービスや訪問介護の利用を提案してくれました。初めは「他人に任せていいのだろうか」という迷いもありましたが、実際にサービスを利用してみると、父も祖母も表情が明るくなり、私自身も心に少し余裕が生まれるのをはっきりと感じました。
公的な福祉を利用することで、「自分が全てを背負わなくてもいいんだ」という気づきと安心感を得ることができましたし、この制度がなければ、私はきっと心身ともに限界を迎えていたと思います。救われたのは父と祖母だけでなく、私自身だったと今でも強く感じています。
二人の介護によって、私は自分の夢やキャリアなどやりたいことを諦めました。家族のせいにする訳ではありませんが、父と祖母の介護がなければ、どういう人生になっていたのか。
時折、そんな空想を描くことがありますが、ここではっきりと言えるのは家族の介護こそ公的な福祉を利用し、プロにしてもらうべきだということです。それは決して無責任なことではなく、家族と自分の未来を考えた責任ある行動だということを介護をしている方(特にヤングケアラーたち)と介護を受けている方たちに伝えていきたいと思いますし、高齢者の介護に限らず、障がいのある方たちへのサポートは家族だけで支えるのではなく、地域全体で支えることがこれからの社会で重要になります。私は、そんな未来を創るため自らの経験をもとに取り組んで参ります。